阪神淡路大震災と東町青年会


  震災

平成7117日午前546 分地震発生 家から外に出て来られた人は、みんな自分の目を疑ったことでしょう。
夜が明けてくるにつけ目に入ってくる光景は、この世の終わりかと思えるほどでした。
我が東之町においても、青年会員
1名を含め6名の尊い命が奪われてしまいました。
石屋
JR住吉辺りで火の手があがっていましたが、幸い町内及び周辺から火災は発生しませんでした。

当青年会に、このような大規模災害時の対応マニアル等ありませんでしたが、ある者は崩れた建物の下敷きになった人の救出に、ある者は世界長駐車場に避難してきた人の為の、場所(ブルーシートによるテント)の設営をしたりしました。

町内ではいつも夏のラジオ体操で世界長駐車場(現世界長駐車場・ダイドードリンコ)をお借りしていたこともあって、多数の方々が一時避難でこの広場に来られました。
世界長酒造で酒造りのため但馬方面から来られてた方々が、薪をしてくださり暖を取ることができました。
世界長酒造の社長木原様及び従業員の方々のご理解ご協力により、いつしかこの場所が町内被災者の拠点となっていきました。

17 日の深夜三重県から応援で駆けつけて来たレスキュウ隊にお願いし、最後まで我々では救出できなかった二人を、救出していただきました。
残念なことにお一人はすでに亡くなっておられました。
灘高校体育館の遺体安置所までお運び申し上げその長い
1日を終えました。

 次の日早朝 セスナ機により第二工区にある三菱液化ガスのLPGコンビナートからガス漏れのため国道2 号線より北まで避難するよう告げられ、ほとんどの方はそれに従い北へ移動、住民の方たちは御影公会堂高校工業高校中学校小学校北小学校あるいは神戸から離れ親戚縁者のお宅に身を寄せるなど散り散りバラバラになり、翌々日に避難勧告が解除になるまで町内に残ったのはほんの数人でした。
(後日三菱液化ガスの
LPG コンビナートに勤めている方に伺いましたが、もし爆発していたらその爆風は、国道2号線どころか六甲山をも飲みこむぐらいの威力があるそうです)

19日には青年会のメンバーは世界長広場(世界長駐車場)に徐々に集結してきました。


   世界長テント村と夜間自主警備

 当時町内には適当な広場はなく、使えるトイレもあった事などから自然にテント設営を始めました。

夕暮れになると町内には人影も無く、電気も無く真っ暗状態でした。
こういう所に出没する窃盗団のうわさもあり、実際全壊した東町会館にも誰かが侵入した形跡もあり、夜警をすることにしました。(以後
5月はじめまで続けた)
真っ暗闇の町内しかも倒壊した家ばかり
,普段の生活道は倒壊した建物で塞がっていて、なんとも不気味な中での夜警で、あるいみ怖々で拍子木はついつい間隔なくうち続けていました。
桁がグニャグニャの阪神高速を
43 号線の車のライトが照らし上げサイレンは終日鳴り止まない。
余震が時々建物のガラス窓を鳴らすので、はじめのうち小人数の時は、ビクビクものでした。
本町一丁目の一部では、街頭など点灯していてホっとしたものです。
そんな中自宅に居られた方々は、合図をしてくださったり、わざわざ外まで出てきてくださったり、激励や感謝してくださったり、時には差し入れまでしていただきました。
我々青年会にとって住民の皆さんによろこんでいただけているという実感で、充実した日々でもありました。

   青年会仮設風呂とワイドABC生中継

 次に我々も必要と感じていたものは、風呂でした。必要な物を探し集めました。
場所が世界長酒造ということもあって、ホーロー製の桶やアルミ製の大きな器など借り受け、水溜めや湯沸しに使いました。かまどは町内の倒壊した塀のレンガをいただいて組み上げました。
浴槽は青年会のメンバーから提供を受け、パレットに板をのせビニールシートで床を作りました。
下水は倒壊家屋の雨樋を使用し、燃料は倒壊家屋の木材を使用しました。
水は近所の井戸のあるご家庭にお願いし、子供達が台車で運搬を担当し、世界長酒造の井戸水を戴く様になるまで日課となりました。
衛生面には気を配り、浴槽と掛け湯とは完全分離しました。
24日に完成し早速看板を上げ、みなさんに解放しました。
最初のころは予約制にし、町民の方をはじめ他町の方にも広く利用していただきました。
大変好評で多くの方によろこんでいただきました。

 やがて2月を迎え6()この風呂がきっかけとなり、ワイドABC(大阪朝日放送)の中継を世界長駐車場から行うこととなりました。
中継車は
43号線などあの渋滞の中、朝早く到着し放送準備をし、レポーターのアナウンサー(三代澤氏)は、阪神電車の青木(当時は青木までしか復旧していなかった)から歩いて来ました。
午後とどこおり無く中継されました。


     救援物資

1月の末、このテント村が町の拠点と区に申請したため、毎日おにぎりが届くようになり、町内の方々が引き取りに来られる、というシステムができました。

2月11日 町内住民の方のつながりにより、愛知県中島郡祖父江(そぶえ) 町から商工会議所の方々が救援物資を持って来られました。そして、テント村で町内の方々の為に救援物資の配布と、バーベキュウをしてくださいました。

     交通の復旧

 そしてこの日、阪神電車が御影まで復旧しました。
しかし特急電車は青木止めでした。この日から代替バスが弓場線予防医学前発着となり、
長い列が毎朝世界長テント村前までできました。やがて駅から弓場線予防医学前まで特設街頭が立てられ、夜間の安全な乗換えが確保されました。我々の夜警にも時折声を掛けてくださる方もいました。

町内の倒壊家屋の解体撤去も進み、通行止めの道も通れるようなってきました。

41JRが復旧開通すると、朝夕の行列はほとんど解消され、少し寂しささえ感じられました。

その後、阪神電車が復旧したのは626日でした。

     ライフライン

 電気は震災一週間後におおむね復旧しました。

 3 月になると水道が本管まで供給されるようになり、各家庭も給水車にポリ容器をもって行かなくてよくなりました。
水道が復旧することにより駅周辺の、飲食店パチンコ店等の復旧開店が相次ぎ、町内はだんだん平静を取り戻してきました。

ガスが供給されるようになったのは、5月、それまで各家庭に卓上ガスコンロとガスボンベが配給されました。  


     東町会館

 東町会館も全壊してしまいました。
当時は管理人が常住しておりましたが、幸い怪我はなく建物のホールと地車庫は補修で使えそうでしたが、西側の消防庫管理人室と2階和室の損傷がひどい状態でした。
青年会が3月ホールの外壁が剥がれ落ちた部分にシートを貼るなど、使用できるように作業しました。
結果平成9年新築のための解体時まで使用することができました。

東町会館には数世帯の一時避難者が居ましたが、5月にはそれぞれ仮設住宅に移転しました。
そしてホールだけを残し解体撤去、ホールの西側に玄関を設け、賃貸し使用を受けられるようになりました。
コンテナ1基を敷地内に置き備品を格納しました。
その間、当時自治会長の故八木様のお宅に会館備品を預かっていただき、自治会の会議もお世話になりました。


    地車(だんじり)

 震災時にはコマを地車本体に付けたままにしていたため、地車が転倒することなく、扉を突き破っただけで無事でした。また小屋も屋根が軽い素材でしたので、倒壊を免れました。

当時、本来なら5月第2土・日曜日に行われていた「だんじり祭り」の宵宮の日、鳴り物だけでもと地車庫を開け、飾り付けをし、提灯に灯を燈して鳴り物を鳴らしていると、近所のマンションの方が出てこられ、勢いで地車をテント村まで約250m曳行しました。
これには賛否両論でしたが、青年会としては「こんな時こそ…」という考えでいました。
また、この年の行事はすべて中止される中、例年
8月御影小学校(現在は御影中学校) で行われていた「たそがれコンサート」だけは開催されることとなり、「鳴り物を…」という要請を受け、青年会としては、どうせなら地車ごと出演しようと決め、運営委員会(現保存会)に諮りました。当然反対意見もありました。
警察も大変慎重な対応となりましたが、いろいろな条件付きで中御影地車と共に出演が実現しました。

 当日、「たそがれコンサート」始まって以来の人出となり、震災で荒んでしまっていた御影町民の皆さんに、勇気と希望を呼び起こしていただくことができました。涙ながらに喜ばれる姿に、我が青年会の判断に狂いは無かったと確信しました。
かくして、この
2 回の曳行はどちらの記録にも残らない、幻の曳行となりました。

震災を通して全市的に言われたのは、地域活動の活発なところ、祭りが盛んなところとは、それらの無い地域に比べ、普段から住民同士の連携があり、いざ という時の対応にまったくの違いが現れるということです。
我が町も昭和
63年までは祭りも青年会もありませんでした。
東町青年会を立ち上げ、地車を購入、祭りを復活させた我々の初代会長の功績は、大変大きなものであり、感謝するものです。
この震災によって東町青年会は、その存在を内外に認知されました。
今後も現会長のもと、地域コミュニティーを推し進めてまいります。



         
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